被害者ではなく体験者として生きる

村上さん、こんばんは。
3通目のメールです。今日で村上さんへの質問が打ち切りになると思うと、ちょっと寂しいです。
普段から思っていたやり場のない話を村上さんに読んでいただけて、楽しかったです。貴重な機会をいただき、ありがとうございました。
最後に、村上さんにお伺いしたいことがあります。
『アンダーグラウンド』に書かれていた、ある駅員さんの話の中に、自分はサリン事件の被害者ではなく、体験者だと思うようにしている、というようなことをお話しされていた方がいらっしゃいました。
私も学生の頃、ついこの間まで友達だと思っていた人に「早く死んで欲しい」とか言われてずっと部屋に閉じこもって、ご飯も食べずに泣いてばかりいた時期がありました(今はすっかり元気です)。
その時、たまたまその駅員さんの話を読んで、私は「自分を被害者だと強く思うと、自滅するのではないか」ということに気付きました。だからあの駅員さんは、自分を体験者だと思うようにしているのではないか、と。
自分を被害者だと強く思っていた時期は、世を恨み、相手を恨み、卑屈になって、人も離れていきました(なんで自分ばっかり、とその頃は思っていたのですが、実際には、自分ばっかりではなくて、みんないろいろあるんですよね)。そのようにして自滅していくのかな、と。なんだかうまく言えなくて、すみません。
相手も悪いところがあるし、自分も悪いところがあったな、と考えられるようになってから、ちょっとずつ元気になっていきました。
村上さんは、その駅員さんはなぜ被害者ではなく、体験者だと考えるようにしていたのだと思いますか。
ぜひ、村上さんの解釈をお聞きしたいです。
よろしくお願いいたします。
(朝日村、女性、25歳、医療関係)

被害者というのは一般的にいえば、「自分には何の責任もないのに、たまたま災難が降りかかってきた」という人のことです。だから「どうしてこの私に?」という疑問が先に立ってしまいます。それで深く混乱し、傷ついてしまうこともあります。でもその駅員さんは自分を「被害者ではなく体験者」と見なすことによって、「自分はこの世界に生きているという責任を、たまたま自分なりに分担したのだ」という風に、いわば前向きにお考えになろうとしたのでしょう。僕はそのように解釈しています。それは「災難が降りかかってきた。ひどい目にあった」と受動的に捉えるか、「心ならずもではあるが、自分が災難を引き受けることになった」と能動的に捉えるかの違いだと思います。

あなたもできるだけいろんなことを能動的に前向きに捉えて、元気に生きていってください。

村上春樹拝