消しゴムのようにすり減っていく私

村上さん、こんにちは。
日本の大手企業で研究員として働いている外国人です。大学時代から村上さんの小説やエッセイを読んでいます(8割は翻訳で、一部は日本語で)。
今の職場が初めての組織生活となり、5年目を向かっています。仕事の内容に不満はありませんが、日々の生活の間、何とか自分自身が少しずつ消耗される気がします。まるで消ゴムのように。
組織の人間ってある程度そういう面があるのは当り前かもしれませんが、「長い時間が過ぎると、僕はどうなるんだろう」と心配しています。
村上さんは長い間、村上さんだけのidentityを持って、文章を書いていると思います。そのための心構えと言うか、「これは必ず!」と自分で守ったことがあれば、一言お願いします。
(青飛剣、男性、36歳、研究員)

お仕事ご苦労様です。組織の中で働くのって大変だと思います。それに比べて、たしかに小説家というのは、「自分であり続ける」というのが仕事になります。そういう点ではidentityが商売道具のようなものです。しかしそれと同時に「自分が自分でなくなる」瞬間というのがなければ、本当の小説を書くことはできません。そのへんのバランスがむずかしいといえばむずかしいところです。identityがすべてではありません。

いずれにせよ、人間のアイデンティティーというのは、そんなに簡単に(消しゴムのように)すり減っていってしまうものではないだろうと僕は考えます。組織の中にいるときの自分と、組織の中にいないときの自分というものを、ある程度分けて考えられると良いのではないでしょうか。たとえば新聞記者クラーク・ケントと、スーパーマンみたいに。もちろんそんなに簡単にスーパーヒーローにはなれませんが、「あなた自身」にはなれるんじゃないのかな。それは考えようによっては、一種のスーパーヒーローかもしれませんよ。

村上春樹拝