個人で働くことができて本当に良かった

春樹さん、こんにちは。
『アフターダーク』でマリが言う、次のセリフを読んだときに、あまりにも私が思っていることそのもので、マリが大好きになってしまいました。
「個人で翻訳か通訳の仕事みたいなのをやりたいって思ってるんです。会社勤めには向かないみたいだから」
『アフターダーク』が出版された頃、私はちょうど、同じように考えて個人で翻訳の仕事を始めたところでした。個人で働くのは大変なこともありましたが、それまでの苦労に比べれば何でもありませんでした。ただ、ここに至るまでは大学院に行ってみたり、会社に勤めてみたり、いろいろとありました。
会社や大学など、組織の中で他人と共に働くことは自分には向いていません。そのことにはなんとなく気付いていたのですが、10代の頃の私には「個人で働く」という選択肢はまったく見えませんでした。内向的な性格で人付き合いは苦手でしたが、それは努力で乗り越えられることであり、乗り越えるべきことだと信じていました。親や教師もそう求めてきました。それで、組織の中で自分の能力を発揮できるよう努力してきましたが、常に自分が自分ではないように感じていました。また、外向的な人と自分を比較して、自分はダメな人間だと悲しく思っていました。それで、いろいろあった末、外向的な人から自分の内向性を批判されたりもして心底疲れてしまい、自分が幸せに生きられる方法は他にあるのではないかと考えた結果、個人で働くという選択肢に辿り着きました。
自分もマリのように10代の頃にそう考えていれば、嫌な思いをしなくて済んだのにと思います。今でも、過去のことを考えるととても悲しく悔しい気持ちになります。ただ、嫌な思いをしながらも自分には向かない環境で努力したことは、自分の人生の糧になっているとは思うのですが。
私は長い間、外向的にならなければというプレッシャーを感じ、努力してきましたが、達成することはできませんでした。ある時点で「私は私の生きたいように生きればいいのだ」と開き直り、個人で仕事を始め、ほとんど猫としか会話をしない生活に入ってからは、それまで感じていたストレスが嘘のように消えて、毎日楽しく生きています。
春樹さんは組織に属したことはないとのことですが、いつ頃から個人で働くことを意識しておられましたか? また、周囲からのプレッシャーはありませんでしたか? 教えていただけたら幸いです。
(匿名希望、女性、38歳、自営業)

あなたのように、組織の中でうまくやっていくことのできないかた、あるいはなんとかやってはいるけれど疲れ果ててしまったというかたから、多くのメールがこのサイトに寄せられています。あなたの場合はその問題をうまく解消できたみたいで、よかったと思います。もちろん翻訳という専門技能を持っておられたからできたことでしょうが、あなたの報告が多くの人にとって何かの参考になるかもしれません。

僕は「社会体制を打破する」ことがひとつの美徳であった当時に青春時代を送ったので、「システムの中には入りたくない」という気持ちはけっこう強くありました。それは僕にとっては良いことだったかもしれません。でももちろん親なんかにしてみれば面白くなかったかもしれませんね。僕はそんなこととくに気にしませんでしたが、気にする人々も多かったようです。「親を泣かせたくない」と言って、就職していった連中も多かった。このあいだまでヘルメットをかぶっていた連中が、長い髪を切り髭を剃り、一流企業に入社していきました。そして第一線で一生懸命働いてバブルをこしらえ、それを派手に破裂させ、社会体制を見事に打破しました……というのはあくまで冗談ですが。

村上春樹拝