物語のインスピレーション

何らかのインスピレーションを得て「こういうものを書こう」と決めた後に、物語のディテールについての取材をしていて、インスピレーションが色褪せてしまったり、当初のアイデアが変わってしまうことはありますか? 
(火星の冬、女性、36歳)

インスピレーションというようなものは、僕の場合あまりありません。ただ出だしのシーンが頭の中に鮮明に浮かんできて、それがするすると延びていくだけです。物語のディテールについて取材をすることもありません。ディテールはだいたい自分の力で満たしていきます。取材や調査をしていると、スピードが鈍るから。物語の本来的なスピードをできるだけ殺さないこと、その力を削がないこと、それが大事になります。ディテールはあとから書き直せばいいわけですから。

たとえば『ねじまき鳥クロニクル』であれば、主人公が昼ご飯のためにスパゲティーを茹でているときに、電話のベルが鳴ります。そのシーンだけがまず頭の中にあります。電話は誰からかかってきたのだろう? スパゲティーはどうなるのだろう? そこから話が始まります。そういう鮮やかなファーストシーンがひとつあれば、それでオーケーなのです。とても平凡な情景です。これはインスピレーションとも呼べませんよね。

ところで僕が『ねじまき鳥クロニクル』を発表したとき、ある批評家に「リアルさを欠いた小説だ。日本の男は昼食に一人でスパゲティーをつくったりはしない」といった批判を受けました。へえ、とびっくりしたことを覚えています。僕は昼ご飯によくスパゲティーをつくっていたんだけど。ぶつぶつ。

村上春樹拝