教師のジレンマ

わたしは中学校の教師をしています。毎年数回ですが「国語の問題で、作者の言いたかった事は何ですかってあるけど、何で作者じゃない先生に答えが分かるんですか?」と生徒に聞かれます。わたしは教科書通りの説明をして、それでも納得のいかない生徒がいたら「一般的にはそうだと考えるのが適当だからよ」と誤魔化してしまい、そしてそれに対して、いつも罪悪感を感じてしまいます。「作者は何を意図してこの段落を書いたのでしょうか?」とか、「○○が△△だと思ったのはなぜでしょうか?」とか、そんなの本当はわたしにも分からないのです。おいしいコーヒーをいただいているときに、そのコーヒーがなぜおいしいのかの説明は無い方がコーヒーの味を楽しめるように思うのです。村上さんの本を読んでいても、同じ感覚に陥る事がしばしばあります。「なぜかそうしなくてはならないと思った」というような表現に説明はいらないと思うのです。説明がないから面白いと感じるように思うのです。でも、職業柄、問題があるのならそれに対しての答えを示し、更には説明する必要があるのです。ですので、どうにかして自分の中で折り合いのようなものを付けたいのです。村上さんは執筆された作品の言葉の端々に、やはり何かしらの意図を持っていらっしゃったり、伝えたい事柄を含ませていらっしゃるのですか? それとも、おいしいコーヒーを淹れるように、文章や言葉の美しさを重視していらっしゃるのですか? 何でも結構です。どんな感覚なのかを教えてくださいませんでしょうか? どうかよろしくお願いします。
(げいじょ、男性、38歳、教師)

百人の読者がいれば、そこには百の解釈があります。どれが「正解」と決める根拠はどこにもありません。でもそんなことを言い出したら、先生は困ってしまいますよね。試験の採点のしようもありませんし。

僕が大学で教えるときは、みんなでひとつの小説を読み、そこからいくつかのポイントをとりあげ(そのポイントは僕が選びます)、それについて学生一人ひとりにそれぞれの解釈をしてもらい、それをみんなで「ああでもない、こうでもない」と時間をかけて討論することにしています。実にいろんな意見が出てきます。それについてみんなで語り合っているうちに、だんだん「落としどころ」みたいなものが見えてきます。僕はあまりわきに逸れないように、流れを自然に誘導していくだけです。これはなかなか面白いプロセスですよ。もちろんみんなが積極的に発言しないと成立しないわけだけど、僕の持ったクラスはみんなにぎやかだったから楽しかったです。

自分の小説をテキストにして教えたことはありません。恥ずかしいし、説明するのはかなり面倒くさそうだから。

村上春樹拝