長編小説はなぜ存在しているのでしょう?

こんにちは。さっそくですが、質問は長編小説はなぜ存在しているのか? ということです。
僕は一年まえから趣味で小説を書いています。
僕の場合、どんなテーマ(適切な言葉がわかりませんが、小説の核となるものとお考えください)だろうと三万字もあれば小説をまとめられるのですが、世の中にはそれ以上の文字数の小説であまりにもあふれすぎている。どうしてそんなにも書くんだと思うほどです。
複数のテーマを盛りこめばいい、とある人はいいますが、複数盛りこむくらいなら、ひとつひとつテーマをわけて、短編を複数編つくればいいと思ってしまうのです。
サイドストーリーを書けばいい、とまたある人は言いますが、それも同じ理由で納得できません。
村上さんの小説をよく読むのですが、そのなかでも『ねじまき鳥クロニクル』はそれが顕著です。皮剥ぎや井戸の場面、どれも魅力的でしたが、なぜひとつの長編にするのだろう、これらをなぜ短編としてべつべつに発表しなかったのだろう、とふしぎに思っているのです。
村上さんの真骨頂は大長編にあると思います。長編はなぜ存在しているのでしょうか? 
(煮干し、男性、25歳、製造業)

たとえば『ねじまき鳥クロニクル』という長編をとりあげてみます。その中には様々な物語が含まれています。それは別々の物語をただひとつにまとめたというものではありません。『ねじまき鳥クロニクル』という太い根幹を持つ物語を書き進んでいけばこそ、そこにいろんな派生的な物語が次々に姿を現してくるのです。予想もしなかったいろんな風景が立ち上がり、予想もしなかったいろんな人々が姿を見せてきます。それらが繋がり合い絡み合い、ひとつの総合的な世界を作り上げていきます。

そういう太い流れを時間をかけて立ち上げていくのが、長編小説を書く醍醐味であり、また長編小説を読む楽しさなのです。そのように考えていただけるとよいと思います。音楽に例をとれば、ベートーヴェンの第九シンフォニーを「ちょっと長すぎる。ばらばらに解体して、第四楽章だけでいいじゃないか」と言いますか? ものごとには「総合性」というものがあります。というのが僕の意見ですが。

村上春樹拝