主人公の生き方は、受動的なのか主体的なのか

村上春樹先生、こんにちは。
兵庫県の日本海側の山寺で住職をしているドイツ人です。先生の長編小説を何冊か拝読して、そのなかには極めて受動的に生きている主人公が多いというふうに見受けられました。本に向かって思わず、「もっとしっかりせよ」「オマエ、何がしたいのか」「自分の意思がないのか」と声をあげたくなることもしばしばありました。主体的に行動しているというよりも、周りの働きかけによって動かされている彼らは、典型的な草食系日本男子と思いました。草食系は仏教にも通ずるあり方だと私は思っています。なんにせよ、「【私】というものはない」というのが仏教の大前提です。私たちがふだん【私】と思っているものは、ありとあらゆる要素に形成されているまぼろしに過ぎません。そういう意味では、【私】にあまり固執していない先生の小説の主人公たちは仏教的な世界観を生きている気もいたします。
しかし仏教では「自分のよりどころは自分のみ」とも言います。【私】を否定していながら、主体性を重要だと考えているのも仏教です。先生の小説の中では、主人公を囲んでいる脇役のなかに主体的に生きようとする人物もありますが、主人公自身にはそういう主体性を感じないのはなぜでしょうか。
先生の小説の主人公たちが読者に、
「人生って、そんなにがんばらなくてもよい。あるいはこういう受動的な生き方もあるよ。世界じゅうの人々が【私】を手放して、より草食的な生き方をすれば世界はもっと平和になる。たぶん」
と呼びかけているのでしょうか。
あるいは逆に、
「世の中には右や左に流されて生きている人であふれているが、彼らは一体何をよりどころとしようとしているのか」
という問題提起をしようとしているのでしょうか。
先生ご自身は主体性について、どうお考えでいらっしゃいますか。また自由意志(あるか、ないか)について、お考えをお持ちでしょうか。
それとも、先生はご自身の作品についてはそんなことは一切考えず、大いなるインスピレーションのもとで書かされるままに、主人公たちと同じくらい受動的な姿勢で、内なる声に耳を傾けながらお書きになっているのでしょうか。
長々とすみません。先生の小説を小難しく考えすぎているのは私だけでしょうか。
(ネルケ無方、男性、46歳、僧侶)

欧米の読者というか、批評家の中には僕の主人公たちが受動的であると見なす人が少なくありません。でもそれはいささか一面的な見方ではないかと僕は常々考えています。

僕は彼らが受動的であると考えたことはほとんどありません。僕の小説の主人公たちの多くは、世界の流れを「既にそこに生じたもの」として観察し、捉え、その展開の中に自分たちを有効に組み込ませようと、静かに(そしてむしろ主体的に)努めているのです。世界は僕らの意志を無視した――あるいはないものと仮定した――決定で満ちています。たとえば極端な例ではありますが、世界貿易センタービルの事件や、福島原発の災害がもたらした圧倒的なまでの状況に対して、そこに生じた現実認識の激しい落差に対して、人がそれぞれ自分の生き方や世界観を調整し、作り替えていくことを、はたして「受動的」な態度と呼んで片付けてしまってよいものでしょうか? それが「草食男子」的な行為なのでしょうか? 世界はますますその流動性を増しています(ますます「無常」化しつつあると言うべきでしょうか)。価値は日々多様化し、テクノロジーが僕らを簡単に追い越していきます。僕ら一人ひとりが、そのような世界の流動に合わせて、自分を刻一刻変更させていくことを余儀なくされています。それは決して安易な作業ではありません。僕らはそのような難儀な作業をするにあたって、なんらかの新しい枠組みを必要とし、新しいロールモデルを求めています。僕が物語を通して目指しているのは、そのような枠組みやロールモデルを、僕なりに及ばずながらこしらえていくことなのです。それを「受動的」と呼ばれると、僭越かもしれませんが、少し首をひねりたくなります。

主体性vs.制度、悟性vs.神意、あるいはロジックvs.カオスといった西欧的図式こそが、現在(それこそ)いくぶんの見直しを求められているのではないかと、現今の世界情勢を見ながら、僕なりに愚考しているのですが。

村上春樹拝