空想とは物語の萌芽なのでしょうか?

こんにちは。突然ですが、村上さんは子供の頃空想に耽ることはありましたか? また、村上さんは物語が居座ってしまうという風に仰っていましたが、それは所謂空想というのとは違いますか? 
自分の話になってしまいますが、私は小学生の頃、友達と遊ぶよりも部屋の中で空想にふけって1人で喋って遊んでいる子供でした。例えば一時期はピアノとソファーを船に見立てて水上生活をしていたり(世界には本当にそういう民族がいるんですね)、またある時は自転車で空想の友達と旅をしたりもしました。
しかし残念ながらその様な楽しい空想はもうできなくなってしまいました。現実の世界と自由な空想の世界が上手く混じり合わなくなって久しいです。妄想はしますが、あれは結構建設的なので、もっと本当にありもしないこととか……。
もちろんそんな妄想や空想と村上さんのお仕事には格段の差があると承知していますが、でも物語の萌芽的なものはもしかして、そういう感じのものだったりするのかなと思い、質問してみました。
(セキセイインコ、女性、23歳)

物語と空想は似ていますが、ちょっと違います。物語はもともと自分の中にあるものです。それは深いところに鉱脈のようにあります。それが地上にたまたまでてくるのが空想になるのかもしれません。つまり、ごく簡単に言ってしまえば、空想は物語の尻尾のようなものです。子供の頃は物語と空想がかなり近接したところにありますが、大人になってくると、そのふたつはだんだん分離していきます。

小説に即していえば、空想を書いていただけでは小説になりません。自分の中にある物語を深いところから掘り起こして来なくてはなりません。ゼペットじいさんが木の塊の中からピノキオを見つけ出すみたいに。つまりゼペットじいさんはピノキオを作ったのではなく、見つけ出したのです。だからこそピノキオは生命を持つことができたのです。

村上春樹拝