あの日から二十年

こんにちは。僕は今大学生です。僕はいままで、自分でも嫌になるぐらいなさけなく恥ずかしい失敗をいくつかしてきてしまいました。僕はそのことを思うと、本当に嫌になります。村上さんの『約束された場所で』のオウム真理教の信者の方の話を読むと、胸が痛くなることがあります。この本を読むたびに、人の失敗(または悪)はその人の容量を超えて自分にのしかかってしまうものなのだと思います。それは本当に恐ろしいことだと思います。
そこで質問なのですが、この本の河合隼雄さんとの対話の中で「悪がシステム単位のものか、個人単位のものかまだわからない」ということを村上さんが仰っていたと思うのですが、今はどういう風に考えておられるでしょうか。また、もし悪を犯してしまったら、その人はそのあとどういう風に生きていけばいいのか、その人にとって人生とは何だったのだろうかということを僕は考えるのですが、村上さんはどう思われますか。
こういったデリケートな問題に対して、もしかしたら僕の文章が軽薄なものになっているかもしれませんが、その時は申し訳ありません。
(匿名希望、男性、22歳、学生)

オウム真理教の一連の事件については、かなり長いあいだ細かく取材し、それとつきあって生きてきたので、僕の身体の中までその空気が染みついてしまっているような気がします。心が重いというか、それについては簡単には語れない部分があります。被害者のみなさんについても、また罪に問われている加害者の側についても。もちろん彼らが罪を犯したことは事実だし、それを償わなくちゃならないのは確かなんですが、法廷で彼らが死刑を宣告されるところに立ち会うと、やはりしばらくは言葉を失うほど落ち込みます。たぶんそれは、彼らが犯罪者には見えないからだと思います。彼らはどう見ても、僕らのすぐそばによくいる人々なのです。でもそれと同時にもちろん、彼らのおかげで愛する人を失い、人生を狂わされた多くの人々を目にしてきた僕としては、安易に同情するわけにはいきません。そのへんのジレンマが僕の口を重くさせます。

今のところ僕に言えるのはそれくらいです。すみません。サリン事件から二十年になります。でもあの事件について考えるときの心の重さはちっとも変わりません。

村上春樹拝