小説における資本論

街を歩いていて、よく思うのです。これはどのくらいの資本が投下されていて、どれくらいで回収されるか計算されたものだなと。もちろん世の中は広くて、そういうものではない本物もなかにはありますが、世の中の大抵はそういうふうにできているように僕には思えます。
誰もがそういう中のひとりにはなりたくないけれど、仕方なくそうしているのかななんて、僕は思っています。
小説だってそうです。大抵の小説には投下された資本があり、その回収があります。でも、本来、小説はそういうものではなかったはずですよね? 
世の中で時を超えて残るものは、いったいどれくらいあるのでしょう? 
これから未来、資本の投下と回収の呪縛から抜け出た未来はあるのでしょうか? 
古いお寺なんかをみるたびに、そういうことを考えてしまいますが、春樹さんはどう思われますか? 
自分の小説が、一体どれくらい残ると思いますか? 
(abejunichi、男性、39歳、働きながらカフカ的に作家)

そうですか。なかなか面白い考え方をなさるんですね。僕は自分が小説を書くことをあまり「資本投下」という風には考えたことがありません。でもたしかにそう言われてみれば、僕はその小説を書くことに有形無形の資本を投下しているわけで(時間をかけ、手間をかけ、記憶を漁り、想像力を駆使している。電気代も払っているし、人件費もかかる)、その本から収入があれば、僕は結果的にその投下資本を回収しているということになります。しかしそれはあくまで「考え方によっては」ということであって、それは小説を書くという行為の一側面にすぎません。僕は基本的に「書かざるを得ない」と感じるから書くのであって、「こうすれば儲かるから書こうぜ」と思って書いているわけではありません。ですからそれは普通の何かを作る――たとえばセメントや家具を作る――ような意味での経済行為とは少し違うと思うんです。だいたい小説なんて、とくになくてもいいものです。生活必需品ではありません。普通の品物と同じように考えると、少し無理があるのではないでしょうか。

自分の小説がいつまで残るか? 言うまでもなく、そんなこと僕にはわかるわけがありません。誰かかわりに見届けておいてください。

村上春樹拝