翻訳で補えない領域は存在するか? 

この前、とある遠い国で、とても気難しそうな顔をした人々が、とても堅そうな頭を抱えながら議論する、愉快な哲学者たちの集会がありました。そこで、「村上春樹」の小説が、正午ちょっと過ぎたぐらいの軽いコーヒーブレイクのように、突然(あまり会合の本題とは関係なく)引き合いに出されて、驚きました。

その文脈で、「村上春樹の小説には、日本語ができる人間にしか理解できないような部分、翻訳では補うことができないような物語の領域が存在するのだろうか? 彼はあまりそのようなことを気にしていないように見えるけど。日本人としてどう思う?」と、とても高名な某NekoYanagi教授に問いかけられ、大ピンチでした。

そこで僕は、緊張感を隠すために、めいっぱい無愛想なモアイ像のような顔を浮かべて、「この世の中に、全てが翻訳で補われてしまうような文学は存在しません。しかしその補いきれなさのロジックと強度は、翻訳した後にしかわからないものです。だからこそ、この質問に答えるべきなのは、実はあなたたちなのですよ」と、少しはぐらかしたような回答をしてしまいました。実際のところ、村上さんならば、このような質問に、どのようにお答えになりますか? 
(猫になりたい哲学者、男性、30歳、スナフキンになれないコマドリ)

言語レベルでつきあわせていくと、オリジナルのテキストと翻訳されたものとのあいだには、やはりある程度の落差は生じます。これはもう原理的に仕方ないことです。しかしその表層を一枚剥いだ物語レベルにおいては、ほとんどそのままの内容が伝達可能であるはずだと、僕は考えています。作家としても、翻訳者としても、そう考えています。つまり物語性が強い小説であればあるほど、それは翻訳による転換に耐える体質をそなえているということになると思います。物語というのはいわば、世界の共通言語としての機能を果たしているわけです。僕としてはそういう物語の本来的なパワーを信じたいと思っています。言語レベルにおいても翻訳者のぎりぎりの努力が必要とされることは言うまでもありませんが。

村上春樹拝