ある編集者との出会い

春樹さんこんにちは。僕は通信制の大学を卒業していますが、家で勉強するだけでなく20単位分くらいは実際にスクーリングで単位を取り卒業しました。中でも湯川豊さんに学んだ現代小説論という授業が印象に残っていて、春樹さんの『海辺のカフカ』をひたすら読んだり眺めたり顕微鏡でのぞいてみたりを朝の9時から夕方4時20分までみっちり連続で3日間かけて行うというものでした。現代小説を学ぶために非現実の世界を旅したような素敵な時間でした。僕は春樹さんの作品の中で『神の子どもたちはみな踊る』の「蜂蜜パイ」がとびっきり好きです。
質問です。小説は世界を救えますか? 
(蒼井坂じゅーり、男性、34歳、社会福祉士)

そうですか、湯川豊さんがあなたの先生だったのですね。湯川さんは文藝春秋で僕の担当編集者みたいなことを長くしてくれた方です。僕がまだ千駄ヶ谷で店をやっていた頃からのつきあいになります。優秀な編集者でもあり、また自ら優れた文章家でもあります。須賀敦子さんについての素敵な本を書いておられます。ヤマメやイワナ釣りの権威でもあります。スタイリストなのですが、緊張症っぽいところがあるのか、ときどき意味もなく一人でぴょんぴょんしておられます。

僕が処女作『風の歌を聴け』で芥川賞の候補になったとき、それを伝えに見えたのがたしか湯川さんだった。「もし受賞されたら、受賞第一作はうちの社の雑誌に書いていただけますか?」と言われたので、「いやです」と答えた記憶があります。そのときはお互いに「生意気なやつだ」と思って別れた印象があるんだけど、しばらくしてから一緒に親しく仕事をするようになりました。僕が受賞第一作の依頼を断ったのは、「小説は書きたいときに書きたいところに書きたいように書く」という自分なりのスタンスを守りたかったからです。賞とは関係なく。そういうところは昔からわりに意固地でした。

村上春樹拝