誰も泳がなくなった夏の浜辺で

わたしは三陸で生まれ育ちました。震災があった年のお盆、田舎に帰りました。ものごころついた頃から夏に泳いでいた、風光明媚な浜へ。震災の年は、遊泳禁止になっていて、その浜では誰も泳いでいませんでした。夏の晴れた日に誰も泳いでいないその浜を見たのは、生まれてはじめてでした。それは、わたしがこれまで見た風景のなかで、いちばん美しい海の風景でした。空や海の青が澄んでいて、白い岩に松の木がすこし。眼に映る風景に、人工物がひとつもないのです。人がいないと、地球は幸福かもと感じました。反対に、嫌いなのは猥雑な場所です。30代の頃、ひとりでバルセロナに行き、ネットで予約したホテルへ。それが、とんでもなくうるさい繁華街の真ん中で。怯えたような気持ちになり、一睡もできず。春樹さんがこれまで一番、静寂を感じた場所はどこですか? 
(洋子、女性、47歳、兼業主婦)

そうですか、震災の年は遊泳禁止だったんだ。きっとそれは「普通ではない光景」だったんでしょうね。

僕がよく覚えているのは、ギリシャの小さな島で暮らしていたときのことです。何もやることがないので、釣り竿をもってひとりで海に行って釣りをしました。とても静かな海で、誰も人がいない。かすかに風が吹いているだけです。一匹の猫がやってきて、僕のそばでじっと待っていて、僕が小さな魚を釣り上げると、襲いかかってきてそれを食べました。長い間ずっとそれをやっていました。すごく静かだったな。地球の上に僕とその猫しかいないみたいな。それからウォークマンでジェシ・ウィンチェスターを聴きながら家に帰りました。

村上春樹拝